新井白石あらいはくせき
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、有職読みで きんみ)。 新井白石(あらい はくせき、1657年~1725年)は、江戸時代中期の儒学者・政治家・文筆家・外交顧問で、徳川幕府の正学である朱子学を深く学び、第6代将軍・徳川家宣の側近として政治改革を行った人物です。また、日本思想史・政治史・文化史・外交史にわたって多大な影響を残した知識人でもあります。 ■ 基本情報 名前:新井 白石(あらい はくせき) 諱(いみな):君美(きみよし) 通称:源吾 号:白石(はくせき) 生年没年:1657年(明暦3年)~1725年(享保10年) 出身地:相模国高座郡(現在の神奈川県茅ヶ崎市) 家系:甲府藩士(のち幕臣) 仕えた主君:徳川家宣、徳川家継(第6・7代将軍) ■ 生涯と経歴 ◉ 幼少期と学問修行 若い頃から勉学に励み、朱子学(儒学)・歴史・詩文・語学・仏教・兵学など広範な学問を修める。 **朱舜水(中国明の儒者)**に大きな影響を受ける。 藩主・徳川綱豊(のちの徳川家宣)に見出されて甲府藩の儒者・家臣として登用される。 ◉ 将軍家宣の側近として登用(幕政参与) 1709年、家宣が将軍に就任すると、白石は幕政顧問(側用人・侍講)として政治の中枢に関与。 家宣死後もその遺児・家継(第7代将軍)のもとで、政治改革を主導した。 ■ 主な改革と政策(正徳の治) 白石は、側用人・間部詮房とともに進めた**「正徳の治」**において以下のような政策を実施しました。 ① ■ 金銀の改鋳と物価安定 貨幣の品位(含有金銀率)を元に戻し、通貨の信用を回復。 物価の安定と庶民経済の安定を図った。 ② ■ 外交政策の整備 長崎来航の朝鮮通信使や琉球使節との対応を外交儀礼として整備。 ヨーロッパ事情に詳しく、来日したイタリア人宣教師シドッチを尋問・記録。 **『西洋紀聞』や『采覧異言』**を著し、西洋文化・宗教・政治を初めて体系的に紹介。 ③ ■ 武士の質実剛健と学問奨励 武士の奢侈(ぜいたく)を戒め、実学・倫理重視の教育を推進。 儒学の精神をもとに、封建秩序の強化と武士道の見直しを促した。 ■ 退官と晩年 家継の死後(1716年)、徳川吉宗の就任とともに幕府中枢から退き、以後は文筆に専念。 学問・随筆・歴史書・外交記録など、多数の著作を執筆。 1725年、69歳で死去。学者としての声望は没後も高く、全国に影響を及ぼした。 ■ 主な著作と内容 書名 概要 『折たく柴の記』 自伝的随筆。人生観・政治観・学問のあり方などを回想。 『西洋紀聞』 シドッチ尋問をもとに書かれた、西洋社会・宗教・政治の解説書。日本初の体系的西洋紹介。 『采覧異言』 海外の地理・風俗・宗教についての情報をまとめた著作。 『読史余論』 日本の歴史を通して国家・政治の在り方を論じた歴史書。 『古史通』 神代からの日本神話・歴史を合理的に分析した古代史研究書。 ■ 思想と人物像 実学重視の儒者:道徳・倫理を重視しつつも、空論を排し、実務・政治に活かす学問を志向。 西洋知識に精通した知識人:中国・西洋を比較し、冷静な視点から日本を見直す姿勢を持っていた。 厳格かつ清廉:倹約を重んじ、権力や私利私欲に流されない硬骨漢。 「徳川幕府最大の知性」とも称される。 ■ 新井白石の意義と評価 項目 内容 政治的立場 家宣・家継の幕政顧問。正徳の治の主導者 政策 貨幣改革、外交整備、武士道振興、教育改革 学問分野 儒学、西洋学、歴史学、随筆、古代史 評価 江戸幕府の改革派知識人の代表、近代日本の知的先駆者の一人 |