武田耕雲斉たけだこううんさい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 武田 耕雲斎(たけだ こううんさい、享和3年(1803年)- 元治2年2月4日(1865年3月1日))は、幕末の人。水戸藩の天狗党の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社 (敦賀市)の祭神。靖国神社合祀。

武田耕雲斎(たけだ こううんさい、1803年〜1865年)は、幕末の水戸藩士・尊王攘夷運動家・天狗党の指導者として知られています。
彼は水戸学の思想を体現し、幕末動乱の中で尊王攘夷を掲げて立ち上がった人物の一人であり、**激動の時代に忠義と理想を貫いた“烈士”**として今なお評価されています。

■ 基本情報

名前:武田 耕雲斎(たけだ こううんさい)
本名:武田 耕雲(または武田 耕雲斎)
諱(いみな):斉定(なりさだ)
通称:百助
生年没年:1803年(享和3年)~1865年(慶応元年)
出身地:常陸国(現在の茨城県水戸市周辺)
身分:水戸藩士
思想的背景:水戸学・尊王攘夷・忠君愛国
■ 生涯の流れと主な出来事

◉ 水戸藩での登用と改革
若いころから文武両道に優れ、**藩校弘道館で水戸学(朱子学と尊王思想を融合させた学問)**を学びました。
藩政にも参与し、藩主・徳川斉昭(なりあき)の側近として活躍。藩政改革に携わります。
※徳川斉昭は徳川慶喜の父であり、水戸藩は尊王攘夷の牙城として知られていました。
◉ 尊王攘夷運動と「天狗党」の蜂起
1864年、耕雲斎は尊王攘夷を掲げて立ち上がった「天狗党(てんぐとう)」の中心的リーダーとなります。

■ 天狗党とは?

水戸藩内の急進的攘夷派
水戸学に基づき、朝廷を敬い、外国を排除する「尊王攘夷」を徹底的に実行しようとした武士団
水戸藩内での穏健派(諸生党)との対立が激化
■ 1864年:天狗党の西上(京都への進軍)

耕雲斎は天狗党を率い、「一橋慶喜(将軍後継者)に攘夷を進言すべく」京都に向かって進軍。
約1000名が長野・岐阜・滋賀を通り、近江の敦賀へ至る。
しかし、朝廷からの支持を得られず、また幕府軍に包囲され、降伏を余儀なくされる(敦賀で投降)。
■ 最期:斬首刑に処される

天狗党の一行は、敦賀で捕らえられ、幕府の命により武田耕雲斎をはじめとする同志352人が斬首刑に処されました(1865年、敦賀の処刑場)。
この事件は「天狗党の乱」として知られ、幕末の攘夷運動の悲劇の象徴ともなりました。
■ 思想と人物像

**忠義に生き、主君と天皇に尽くすことを理想とした「烈士」**の典型的存在。
水戸学を実践に移した存在であり、実直で厳格な人物だったとされています。
最後まで理想を曲げず、**「忠を貫いて死すことが真の日本人の道」**という覚悟で処刑に臨んだと言われています。
■ 墓所と顕彰

武田耕雲斎の墓は、**福井県敦賀市の「天狗党殉難士墓所」**にあります。
現代でも、毎年慰霊祭が行われ、尊王攘夷の象徴として顕彰されています。
■ まとめ:武田耕雲斎の意義


項目 内容
時代背景 幕末(尊王攘夷運動が活発化)
所属 水戸藩、天狗党の指導者
思想 水戸学(朱子学+尊皇思想)を実践し、攘夷を志す
出来事 1864年の天狗党蜂起、敦賀での処刑(殉難)
歴史的意義 幕末の忠義の象徴、尊王攘夷思想の烈士として後世に影響