平田篤胤ひらたあつたね

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。

**平田篤胤(ひらた あつたね、1776年〜1843年)**は、江戸時代後期の国学者・思想家であり、本居宣長の国学を継承・発展させ、神道思想を大成させた人物です。とくに「復古神道(ふっこしんとう)」を唱え、日本の精神文化や宗教観、さらには尊王攘夷思想の源流にも大きな影響を与えました。

■ 基本情報

名 前:平田篤胤(ひらた あつたね)
号・別名:居翁(きょおう)・真菅乃屋(ますがのや)・篤胤居士など
生年没年:1776年(安永5年)~ 1843年(天保14年)
出身地:出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)
分野:国学・神道・思想・霊学(神秘主義)
■ 略歴と学問の歩み

◉ 幼少・青年期
秋田藩士の家に生まれ、若い頃から学問に関心を持ちました。特に中国思想(儒教)や仏教に対する違和感を抱き、日本固有の思想を追求するようになります。

◉ 国学との出会い
江戸で本居宣長の学統にふれ、深い感銘を受けます。直接の弟子ではありませんが、賀茂真淵→本居宣長→平田篤胤と続く国学の第四の巨頭とされます。

■ 思想の特徴

1. 復古神道の確立
古代日本にあった純粋な神の教え=**古神道(原始神道)**を再評価。
中国由来の儒仏の影響を排し、「神ながらの道」=自然で素直な道を重視。
『古事記』『日本書紀』を重視し、日本独自の精神文化を見直す思想を築く。
2. 死後の世界や霊界観
『霊の真柱』『玉くしげ』などで霊界・魂・神霊について詳細に論じた。
死後の世界・先祖の霊・神との交感などを体系的に説き、**霊学的国学(スピリチュアル国学)**と呼ばれることもある。
死後も魂は生き続けるという考え方は、庶民にも強い共感を呼んだ。
3. 尊王思想と攘夷
神国日本という思想から、天皇を中心とした尊王思想を展開。
外国を排し、日本本来の在り方を取り戻そうとする攘夷思想と結びつき、幕末の志士たち(吉田松陰、藤田東湖など)に影響。
■ 主な著作

『古道大意(こどうたいい)』:復古神道の基本理念を説いた代表作
『霊の真柱(たまのまはしら)』:死後の世界、魂の在り方を詳述した霊学書
『玉くしげ』:霊魂・神道・人間のあり方について説いた思想書
『出定笑語』:仏教への批判と神道擁護を語ったユーモア交じりの論文
『鬼神新報』:妖怪・神霊・奇異現象に関する見解をまとめた作品
■ 教育と影響

江戸・湯島に塾を開き、全国から門弟が集まった。弟子は3000人とも。
幕末の志士や神道系の思想家に強い影響:
吉田松陰
橘曙覧
藤田東湖
会沢正志斎 など多数
明治維新の精神的土台に大きく貢献した。
■ 人物像と晩年

真面目で探究心が強く、精神的には厳格な人物。
同時に非常に神秘的・霊的な世界観を持ち、当時の庶民からも神がかり的な人物と評された。
晩年は視力を失いながらも講義と執筆を続け、1843年に67歳で没。
■ まとめ:平田篤胤の意義と魅力

本居宣長の国学を神道・霊学にまで拡張した思想家
「日本とは何か」を真剣に問い、思想で維新の土台を築いた
精神世界・死後観に関心をもつ人々から今も注目される人物
神道と政治、精神と歴史、そして日本という国の形を考えさせる存在