佐久間象山さくましょうざん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。

佐久間象山(さくま しょうざん、1811年3月22日 – 1864年8月12日)は、幕末の思想家・兵学者・朱子学者であり、「東洋道徳・西洋芸術」を掲げて開国と近代化を主張した人物です。​彼は多くの門弟を育て、幕末の日本に大きな影響を与えました。​

生涯と学問
信濃国松代藩(現在の長野県長野市松代町)の下級武士の家に生まれ、幼名は啓之助、通称は修理、号は象山です。​幼少期から学問に秀で、江戸に出て佐藤一斎に朱子学を学びました。​その後、蘭学や西洋砲術にも関心を持ち、江川英龍に師事して砲術を学びました。​さらにオランダ語を独学し、西洋の科学技術を積極的に取り入れました。​

政治活動と思想
象山は、幕府の海防顧問として「海防八策」を提出し、外国の脅威に備えるための政策を提案しました。​彼の思想の核心は、「東洋道徳・西洋芸術」という理念であり、東洋の道徳(儒教)を基盤としつつ、西洋の科学技術を導入することで国力を高めようとしました。​この考えは、朱子学の「格物致知」の精神に基づいています。​

門弟と影響
象山は私塾を開き、多くの門弟を育てました。​その中には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、加藤弘之など、後に明治維新で活躍する人物が含まれています。​彼の教育は、実学を重視し、理論と実践の融合を図るものでした。​

晩年と死
1854年、門弟の吉田松陰が密航を企てた事件に連座して蟄居を命じられました。​その後、1863年に赦免され、幕府の命で京都に上り、公武合体と開国を説きました。​しかし、1864年8月12日、京都三条木屋町で尊王攘夷派の河上彦斎によって暗殺されました。​享年53歳でした。​

著作と遺産
象山の主な著作には、『省諐録』などがあります。​彼の思想は、明治維新の原動力となり、近代日本の形成に大きな影響を与えました。​また、彼の生家は現在、長野県の史跡に指定されています。​

佐久間象山は、東洋の精神と西洋の技術を融合させることで、日本の近代化を目指した先駆者でした。​彼の思想と行動は、現代においても多くの示唆を与えてくれます。​