橋本左内はしもとさない
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 橋本 左内(はしもと さない、天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。 橋本左内(はしもと さない、1834年4月19日 – 1859年11月1日)は、幕末の福井藩士であり、医師、思想家、政治家として多才な才能を発揮しました。彼は15歳で自己修養の書『啓発録』を著し、藩政改革や幕政にも関与しましたが、安政の大獄により25歳で処刑されました。その生涯と功績について詳しくご紹介します。 生い立ちと学問 橋本左内は、福井藩の奥医師・橋本長綱の長男として生まれました。幼少期から聡明で、12歳で藩の医学館「済世館」に入学し、漢方医学を学びました。15歳のとき、自らの生き方を定めるために『啓発録』を執筆し、自己修養の重要性を説きました。16歳で大坂の緒方洪庵が開いた適塾に入門し、蘭学を学びました。その後、江戸で蘭学者・坪井信良や杉田成卿に師事し、医学や西洋の学問を深めました。 藩政改革と幕政への関与 橋本左内は、福井藩主・松平春嶽に見いだされ、藩の改革に取り組みました。藩校「明道館」の学監として、西洋の学問や技術を導入し、教育改革を推進しました。また、藩の財政立て直しや軍事強化にも尽力し、富国強兵策を進めました。幕政にも関与し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立する運動を展開しました。 安政の大獄と最期 1858年、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まり、橋本左内は一橋派として危険視され、謹慎を命じられました。翌年、伝馬町牢屋敷で斬首され、享年25歳でした。その最期は、藩主から賜った新衣を着て従容として刑に臨んだと伝えられています。 『啓発録』と思想 『啓発録』は、橋本左内が15歳のときに著した自己修養の書で、以下の五訓から成ります。 稚心を去る:子供じみた心を捨て、大人としての自覚を持つ。 気を振う:勇気を持ち、何事にも臆せず挑戦する。 志を立つ:人生の目標をしっかりと定め、それに向かって努力する。 学を勉む:学問を深め、知識を身につける。 交友を択ぶ:有益な友人を選び、互いに高め合う。 この書は、現代でも多くの人に読まれ、自己成長の手本とされています。 評価と影響 橋本左内は、その若さで多方面にわたる才能を発揮し、幕末の改革に尽力しました。彼の思想や行動は、明治維新の原動力となり、後世に大きな影響を与えました。西郷隆盛は、橋本左内の死を惜しみ、生涯にわたって彼の手紙を大切に持ち続けたと伝えられています。 橋本左内の生涯は、短いながらも多くの示唆に富んでいます。彼の思想や行動は、現代においても自己成長や社会改革の手本として学ぶ価値があります。興味のある方は、『啓発録』を手に取ってみてはいかがでしょうか。 |