金森宗和かなもりそうわ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 江戸前期の茶人。飛騨高山城主金森出雲守可重の長男。名は重近。大徳寺の紹印伝双に参禅して剃髪、宗和と号する。父から茶道を学び、のち宗和流を開き、侘び宗旦に対して姫宗和といわれ、天皇や公卿衆の茶湯に大いに貢献した。明暦2年(1656)歿、72才。 **金森宗和(かなもり そうわ)**は、江戸時代初期に活躍した茶人であり、茶道「宗和流」の創始者として知られています。その優美で繊細な茶風は「姫宗和」とも称され、公家や文化人の間で高い評価を受けました。 基本情報 本名:金森重近(かなもり しげちか) 生没年:1584年(天正12年) – 1657年(明暦2年) 出身地:飛騨国高山(現在の岐阜県高山市) 家系:父は高山城主・金森可重、祖父は千利休門下の金森長近 号:宗和(そうわ) 生涯と茶道への道 金森宗和は、茶道に造詣が深い家系に生まれ、幼少期から茶の湯に親しみました。しかし、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で、父・可重が徳川方に与したことに反発し、出陣を拒否したために廃嫡され、母とともに京都へ移住しました。京都では大徳寺で禅を学び、剃髪して「宗和」と号し、茶人としての道を歩み始めました。 宗和流茶道の特徴 宗和の茶風は、千利休の「わび茶」を基礎としつつも、古田織部や小堀遠州の影響を受け、より優美で繊細な作風を確立しました。その上品な茶風は「姫宗和」と称され、公家や文化人の間で広く受け入れられました。 文化への貢献 宗和は、陶工・野々村仁清を支援し、御室焼の発展に寄与しました。また、大徳寺の真珠庵「庭玉軒」や金閣寺の「夕佳亭」などの茶室や庭園の設計にも関与し、京都の文化に大きな足跡を残しました。 晩年と死去 宗和は、晩年まで精力的に茶の湯の活動を続け、1657年(明暦2年)に京都で没しました。享年73歳。墓所は京都市北区の天寧寺にあります。 宗和流の継承と現代 宗和流茶道は、宗和の子孫が加賀藩に仕えたことから、金沢を中心に伝承されました。また、宗和の故郷である飛騨高山にも伝わり、現在も高山市の無形文化財として保存・継承されています。 |