梅田雲浜うめだうんぴん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日(1815年7月13日)- 安政6年9月14日(1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。

**梅田雲浜(うめだ うんぴん、1815年7月13日 – 1859年10月9日)**は、幕末の尊王攘夷運動を先導した儒学者・志士であり、安政の大獄で最初に捕らえられた人物として知られています。​

生涯と活動

幼少期と学問修行
梅田雲浜は、若狭国小浜藩士・矢部義比の次男として生まれました。​後に祖父の姓である梅田を継ぎ、「雲浜」という号は故郷の小浜の海岸に由来します。​藩校「順造館」で学び、江戸では藩儒・山口菅山のもとで崎門学を修めました。​その後、大津に「湖南塾」を開き、京都の「望楠軒」の講主としても活躍しました。 ​

政治活動と尊王攘夷運動
1852年(嘉永5年)、海防強化を藩に建言したことが藩主・酒井忠義の怒りを買い、士籍を剥奪され浪人となりました。​その後、尊王攘夷思想を掲げ、各地で志士たちと交流を深めました。​ペリー来航後は、日米修好通商条約への反対や、一橋慶喜の将軍擁立、井伊直弼の排斥を図るなど、幕政改革に奔走しました。 ​

安政の大獄と最期
1858年(安政5年)、朝廷から水戸藩への「戊午の密勅」降下に関与したとして、京都で捕らえられました。​江戸に送られ、小倉藩主・小笠原忠嘉の邸に幽閉中、1859年(安政6年)に病死しました。​享年45歳。 ​

評価と影響

梅田雲浜は、尊王攘夷運動の思想的指導者として、多くの志士たちに影響を与えました。​彼の死後、その志は吉田松陰や橋本左内らによって受け継がれ、明治維新へとつながっていきました。 ​


ゆかりの地と記念碑

誕生地:​福井県小浜市千種。​現在、誕生地碑が建てられています。​

藩校「順造館」:​若狭高校の正門として移築保存されています。 ​

墓所:​東京都台東区の海禅寺、京都市東山区の安祥院、福井県小浜市の松源寺にあります。​

梅田雲浜の生涯は、幕末の動乱期における志士たちの苦悩と信念を象徴しています。​その思想と行動は、現代においても多くの人々に影響を与え続けています。​