玉室宗珀ぎょくしつそうはく
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 1572-1641 江戸時代前期の僧。 元亀(げんき)3年生まれ。京都の人。春屋宗園(しゅんおく-そうえん)の甥(おい)。臨済(りんざい)宗。宗園の法をついで京都大徳寺の住持をつとめ,加賀前田家の帰依(きえ)をうけて芳春院をひらく。寛永5年紫衣(しえ)事件にかかわり,一時陸奥(むつ)赤舘(あかだて)(福島県)に流される。茶の湯をこのみ,書画でも知られた。寛永18年5月14日死去。70歳。俗姓は園部。諡号(しごう)は直指(じきし)心源禅師。 **玉室宗珀(ぎょくしつ そうはく、1572年–1641年)**は、江戸時代前期の臨済宗大徳寺派の高僧であり、書家・茶人としても知られる文化人です。師・春屋宗園の法を嗣ぎ、大徳寺第147世住持を務めるなど、宗門の中核を担いました。 基本情報 法名:宗珀(そうはく) 号:玉室(ぎょくしつ)、睡眠子(すいみんし) 生年:1572年(元亀3年) 没年:1641年(寛永18年) 出身地:京都 宗派:臨済宗大徳寺派 師匠:春屋宗園(しゅんおく そうえん) 諡号:直指心源禅師(ちょくししんげん ぜんじ) 生涯と業績 臨済宗の高僧として 玉室宗珀は、臨済宗大徳寺派の僧で、師・春屋宗園の法を嗣ぎました。1607年(慶長12年)、36歳で大徳寺第147世住持に就任し、後陽成天皇から「直指心源禅師」の号を賜りました。また、加賀藩前田家の帰依を受け、大徳寺山内に芳春院を開山しました。 紫衣事件と配流 1627年(寛永4年)、幕府が僧侶の紫衣着用を制限した「紫衣事件」において、玉室宗珀は抗議書を提出したため、陸奥国棚倉(現在の福島県)に配流されました。3年後に赦免され、京都に戻り、大徳寺の復興に尽力しました。 茶道との関わり 玉室宗珀は茶の湯を好み、千宗旦・古田織部・小堀遠州・近衛信尋・松花堂昭乗らと交遊しました。特に片桐石州の師となり、「三叔宗関」の号を授けました。 書画と文化的遺産 玉室宗珀は書家としても知られ、師・春屋宗園に通じる洗練された洒脱な書風を持ち、茶掛けとしても重宝されました。また、松花堂昭乗との合作による達磨図などの作品も残されています。 関連人物 春屋宗園:師匠であり、臨済宗大徳寺派の高僧。 沢庵宗彭・江月宗玩:兄弟弟子であり、共に紫衣事件に関与。 片桐石州:弟子であり、茶人として知られる。 松花堂昭乗:合作による達磨図を制作。 玉室宗珀は、宗教的指導者としてだけでなく、文化人としても多大な影響を与えました。その書画や茶道への貢献は、現在も高く評価されています。 |