烏丸光広からすまるみつひろ

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 烏丸 光広(からすまる みつひろ)は、江戸時代前期の公卿・歌人・能書家。准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ。
**烏丸光広(からすま みつひろ)**は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した公家であり、歌人・書家・儒者・文化人としても広く知られています。公家社会の中でもとりわけ教養が深く、その和歌・書道・古典解釈などは、当時の文化の中心に位置していました。

基本情報

生年:1579年(天正7年)
没年:1638年(寛永15年)
家系:烏丸家(清華家/五摂家に次ぐ高位の公家家系)
父:烏丸資慶(からすま すけよし)
通称・号:一条軒、静斎、風月堂など
官位:従一位・内大臣まで昇進
生涯のあらまし

烏丸光広は、京都の名門・烏丸家に生まれ、公家として朝廷に仕える一方で、文学・書道・儒学など幅広い学問に親しみました。彼は、朝廷文化を支える知識人として、また江戸初期の知的エリート層の象徴ともいえる存在でした。

儒学や仏教にも深く通じ、特に**古今伝授(和歌や古典の正統な解釈・伝承)**の分野で大きな役割を果たしています。

和歌の大家として

烏丸光広は、和歌の名手として非常に高い評価を受けています。

彼の和歌は、古典の伝統に立脚しつつも、洗練された感性と技巧を感じさせるもので、江戸幕府や公家社会の中で「和歌の権威」として扱われました。

また、冷泉家・二条家などの歌道家とも親交があり、古今和歌集の注釈や歌会の開催にも関与しました。

書家としての才能

烏丸光広は書家としても極めて高名で、「寛永の三筆」の一人として名を連ねます。

寛永の三筆とは:
本阿弥光悦
近衛信尹
烏丸光広
彼の書風は、気品に満ちた流麗な筆致が特徴で、特に仮名文字を美しく整えた作品が多く残されています。

公家ならではの洗練と格式を備えた、優雅な王朝文化の結晶ともいえる書風です。

儒学・古典研究の貢献

漢詩や儒学にも通じた学識者として、多くの古典注釈や文献研究を行いました。
和漢両道に優れた才人として、多くの弟子を育て、後世に大きな影響を与えています。
彼の学問は実践的な教養としての古典理解を促進し、江戸時代の公家文化や武家教養の形成にも寄与しました。

江戸幕府との関係

烏丸光広は、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたり重用され、公家として幕府との良好な関係を築きました。
特に、家康の朝廷政策において、文化的な仲介役として重要な働きをしたとされています。

また、家光の命により、儒学者・林羅山とともに朝廷儀式や文書の整備に協力しました。

晩年と死後の評価

1638年に没。享年60。
死後もその文化的功績は高く評価され、書・和歌・古典解釈の世界における模範的存在とされ続けました。

現在に残る功績

書作品は多数残されており、東京国立博物館や京都国立博物館、宮内庁三の丸尚蔵館などに所蔵
和歌作品・注釈書などが後の歌学・国文学に多大な影響を与えています
まとめ

烏丸光広は、以下のような多面性を備えた江戸初期の総合文化人です:

朝廷に仕えた高位の公家
伝統に根ざしつつも革新性をもった和歌の名手
書道界に燦然と名を残す寛永の三筆の一人
儒学・仏教・古典解釈に通じた学者としての側面
江戸幕府との橋渡し役としての文化的外交者