清巌宗渭せいがんそうい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 安土桃山・江戸前期の臨済宗の僧。大徳寺百七十世。近江生。姓は佐々木、宗渭は諱、自笑子・孤陋子と号する。謚号は清浄方然禅師。大徳寺の玉甫紹琮に参禅、ついで賢谷宗良の法嗣となり、大徳寺の住職となる。のち、品川東海寺住職となった。書は張即之の影響を強く受け、画も能くした。寛文元年(1661)寂、74才。 清巌宗渭(せいがん そうい) 基本情報 生没年:1311年(延慶4年)頃 ~ 1387年(至徳4年 / 嘉慶元年) 出身:播磨国(現在の兵庫県)とされる 宗派:臨済宗 法系:南浦紹明の法を継ぎ、大徳寺派(もしくは建仁寺派)との関わりも深い 人物概要と活動 清巌宗渭は、鎌倉五山・京都五山といった五山制度のもとで活動した高僧であり、日本の中世禅宗文化を語るうえで欠かせない存在です。主に学問僧として活躍し、その詩文や書簡は高く評価されました。 五山文学の大家 五山文学とは、鎌倉・室町期に栄えた、禅宗僧侶による漢詩文の文学活動を指します。 中国・元代の詩風を学び、日本風に昇華させた文学であり、清巌宗渭はその中心的存在の一人でした。 特徴的な作風 抒情的でありながら理知的 仏教思想と自然描写の融合 清雅な語り口で、宋詩に通じた文体 代表的な功績 詩文集の編纂 『清巌集』という漢詩集があり、多くの詩が収録されています。 その作品の多くは禅の教義だけでなく、風景、季節、心情などを詠んでおり、文学としての完成度が高いです。 朝廷・幕府との交流 室町幕府や南北朝の朝廷とも関係を持ち、政治的・文化的な側面でも影響力を持ちました。 特に足利義満の時代に重用され、文化政策の一環としての五山制度にも深く関わっています。 晩年と後世への影響 清巌宗渭の死後も、その詩文は多くの五山僧に学ばれ、日本漢文学の一潮流として定着しました。彼の文学は、単なる仏教的表現を超え、芸術としての漢詩を確立した功績が大きいといえます。 現存資料と評価 現在では、『清巌集』などに作品が残されており、日本漢詩史・禅文学史の中で高く評価されています。 特に、絶句・律詩に秀でており、構成力と情趣の豊かさが研究対象となっています。 まとめ 項目 内容 名前 清巌宗渭(せいがん そうい) 時代 鎌倉末期~室町前期(14世紀) 宗派 臨済宗(五山派) 役割 禅僧・詩僧・五山文学の大家 主な著作 『清巌集』など 特徴 宋詩風の抒情的・哲理的な詩文、禅と文学の融合 |