佐々木泉景ささきせんけい

時代 江戸時代
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 絵画
プロフィール 佐々木 泉景(ささき せんけい、安永2年(1773年) - 嘉永元年(1848年))は、江戸時代後期から末期に活躍した狩野派の絵師。諱は守継、守續。通称は熊次郎。字は子昌。泉景は号で、別号に彩雲、為絢居士。加賀藩御用絵師に取り立てられ、加賀に多くの作品を残した。

​佐々木泉景(ささき せんけい、1773年〈安永2年〉 - 1848年〈嘉永元年〉)は、江戸時代後期から末期にかけて活躍した狩野派の絵師で、加賀藩の御用絵師として多くの作品を残しました。 ​

生涯と経歴

泉景は、加賀国江沼郡大聖寺永町(現在の石川県加賀市)で、紺屋を営む角鹿治右衛門の長男として生まれました。幼少期から絵画に興味を持ち、大聖寺に滞在していた京都の狩野派絵師・石田幽汀および友汀父子に師事しました。 ​

1790年(寛政2年)、17歳で京都に上り、鶴沢探索・探泉父子の門下に入りました。1801年(享和元年)、探泉が禁裏御用を務める際、泉景も画筆を執ることを許され、翌年には法橋に叙せられました。この際、角鹿姓から先祖の佐々木姓に改めています。 ​

1802年(享和2年)に郷里の大聖寺に戻り、大聖寺藩から御医師格を受けました。1807年(文化4年)からは加賀藩11代藩主・前田治脩の依頼で屏風や衝立などの制作を手掛け、1809年(文化6年)には金沢城二ノ丸御殿の障壁画制作にも参加し、他の絵師より多くの作品を担当しました。 ​

1811年(文化8年)、加賀藩の御用が増えたため金沢に移住し、1819年(文政2年)には藩から7人扶持を受け、お抱え絵師となりました。1821年(文政4年)には法眼に昇進し、翌年には一門とともに12代藩主・前田斉広の隠居所である竹沢御殿の御用も務めました。 ​

1842年(天保13年)には10人扶持に加増され、御細工者小頭に任命されました。これは家格として50石取りの藩士と同等であり、加賀藩の細工者制度において上位の待遇を受けたことを意味します。1847年(弘化4年)には御医師格に格付けされ、加賀の画人として最高位に達しましたが、翌1848年(嘉永元年)に76歳で死去しました。 ​

家族と門人

泉景の家系は代々絵師として活躍し、長男の佐々木泉玄(1804年 - 1879年)、次男の佐々木泉龍(1808年 - 1884年)、孫の佐々木泉山(1834年 - 1886年)らがその後を継ぎました。また、多くの門人を育て、早川泉流、松波泉栄、田辺素山、中浜鶴汀などが知られています。 ​
作品と影響

泉景の代表作には、加賀市実性院蔵の「鹿群図」や、金沢美術工芸大学が所蔵する「松に鶴図」「竹に鶴図」などがあります。これらの作品は、狩野派の伝統を受け継ぎつつ、独自の表現を加えたものとして評価されています。 ​

佐々木泉景は、加賀藩の美術文化の発展に大きく寄与し、その技術と指導力で多くの後進を育成しました。彼の作品とその影響は、現在も高く評価されています。​