長谷川嵐溪はせがわらんけい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画,掛け軸 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 江戸末期の画家。名は筌、字は芳渓、通称は吉右衛門・張嵐渓。大槻磐渓・春木南湖に学ぶ。仙台に赴き菅梅関の門に入る。慶応元年(1865)歿、52才。 長谷川嵐渓(はせがわ らんけい、1814年〈文化11年〉-1865年〈慶応元年〉)は、江戸時代後期の画家で、越後国蒲原郡三条町(現在の新潟県三条市)に生まれました。幼名は熊蔵、諱は荃(せん)、字は芳孫(ほうそん)、別号として香峰(こうほう)、張嵐渓(ちょうらんけい)などを用いました。 20歳頃、越後を訪れた漢学者・大槻磐渓に従って江戸に出て、はじめ春木南湖に師事し、のちに仙台の菅井梅関について学びました。 その後も中国絵画を研究するなど研鑽を積んでいましたが、父の死により帰郷。家業を助けるかたわら作画活動を続け、幕末の越後画壇で画名を高めました。また、後進の指導にもあたり、村山半牧、本間翠峰ら多くの門人を育てました。 嵐渓の作品の一つに「清和時節図」があり、山水画を得意としていました。 また、群馬県立近代美術館には彼の「山水図」が収蔵されています。 彼の影響は門人たちにも及び、村山半牧、本間翠峰、渡部解古など、多くの画家が嵐渓のもとで学び、越後画壇の発展に寄与しました。 長谷川嵐渓は、52歳で生涯を閉じましたが、彼の作品と教えは、越後地方の美術史において重要な位置を占めています。 |