成瀬正成なるせまさなり

時代 江戸時代
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 絵画
プロフィール 成瀬 正成(なるせ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。犬山藩初代藩主で、尾張藩の附家老。成瀬正一の長男。母は熊谷直連の妹。通称は小吉、従五位下に叙任後は隼人正を名乗る。

**成瀬正成(なるせ まさなり)**は、戦国末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将・大名の一人です。徳川家康に仕えた家臣として名を馳せ、その後、尾張国(現在の愛知県)犬山城主となった成瀬家の祖とされています。以下に、彼の生涯や功績、家系などを中心に概説します。

1. 生い立ちと家系背景

出自と誕生
成瀬氏はもともと三河国(愛知県東部)出身の家系で、松平(徳川)家に古くから仕えた家柄とされています。正成も戦国末期(16世紀後半)に三河国で生まれ、幼少期から徳川家に近い環境で育ちました。
徳川家康への仕官
成瀬正成は、若いころより徳川家康に仕え、同世代・同門の武将たちとともに家康の各地転戦に従ったと伝えられます。三河一向一揆や小牧・長久手の戦いなど、戦国後期の主要合戦で功績を挙げたとの記録が残ることもあります。
2. 徳川家での功績

各地での転戦と武功
家康が織田・豊臣政権下で勢力を伸ばしていく過程で、正成は各地の合戦に参加し、武功を重ねました。
特に関ヶ原の戦いや大坂の陣(冬・夏の陣)など、徳川氏が覇権を確立する決定的な戦いにも従軍し、信頼を得たと考えられます。
領地拝領と家臣団の整備
徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた後、功臣たちには各地に所領が与えられました。正成も家康・秀忠期にかけて所領を与えられ、後に尾張国犬山城を預かる大名(城主)として成瀬家を興すことになります。
3. 犬山城主としての治世

犬山城の支配
犬山城は、尾張国と美濃国(岐阜県)との境に位置する要衝の地にあり、交通・軍事の要地でした。正成はこの地を任され、徳川政権下での地域統治を担いました。
成瀬家は犬山城を拠点として、江戸時代を通じて犬山藩(ただし正式には独立藩ではなく、尾張徳川家付家老の立場で所領を支配)を治める家系となります。
政治・文化への貢献
犬山城下の整備や、地域の農政・治安維持に努めたとされます。また、尾張徳川家と江戸幕府の間を取り持つ付家老として、政治面でも重要な役割を果たしました。
正成自身がどの程度、学問・文化活動に関わったかの詳細は史料によって異なりますが、後の成瀬家では学問や文化事業を奨励し、犬山地域の発展に寄与しています。
4. 晩年と子孫

晩年と死去
成瀬正成は江戸幕府が安定期に入る頃まで存命し、家督を子に譲った後に没したとされます。没年については、資料により多少の異同が見られる場合もありますが、一般には17世紀前半(寛永期ごろ)に世を去ったと伝えられます。
後継者と成瀬家の展開
正成の後、成瀬家は犬山城主として代々続きました。正式な「犬山藩」という形ではないものの、尾張徳川家の付家老として大きな権限を持ち、明治維新まで犬山の地を治めています。
成瀬家は幕末維新期にも活躍し、明治以降も華族として存続。犬山城は現在、成瀬家の個人所有(ただし国宝指定)として知られ、現存天守閣の一つとしても有名です。
5. 後世への影響・評価

犬山城と成瀬家の存在感
成瀬正成が犬山城主となったことが、後世の犬山地域の歴史・文化に大きな影響を与えました。現在の犬山城は、日本国内でも貴重な現存天守の一つとして多くの観光客を集めています。
尾張徳川家との関係
成瀬家は尾張徳川家と密接な関係にあり、江戸幕府の中でも独自の地位を確立しました。付家老という立場でありながら、所領や城を預かる姿は、いわゆる外様大名とも異なる特徴的な存在でした。
武将としての評価
徳川家康の家臣団の中でも、石川・本多・酒井・井伊などの譜代大名ほど有名ではないかもしれませんが、戦国~江戸初期の変革期において功績を挙げ、犬山城を基盤に家を興した武将として評価されます。
まとめ
成瀬正成は、徳川家康に仕え、戦国から江戸初期の大きな転換期に活躍した武将です。所領拝領の末、尾張国犬山城主となり、成瀬家を犬山の地に定着させました。後に犬山城は明治維新以降も成瀬家が管理を続け、現代において国宝・現存天守の城として名を馳せています。正成自身の詳細な合戦履歴や個人の逸話は限られた史料に依存しますが、犬山城を拠点とした成瀬家の歴史的背景を知るうえで、欠かせない人物といえるでしょう。