野呂介石のろかいせき
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 野呂介石(のろ かいせき、延享4年1月20日(1747年3月1日) - 文政11年3月14日(1828年4月27日))は、江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。 名ははじめ休逸(きゅういつ)であったが、のちに改名して隆(りゅう)または隆年(りゅうねん)のふたつの名を混用した[1]。字を松齢(しょうれい)、号は介石のほかに班石(はんせき)、十友窩(じゅうゆうか)、澄湖(ちょうこ)、混斎(こんさい)、台嶽樵者(だいがくしょうしゃ)、第五隆(だいごりゅう)、晩年になって矮梅居(わいばいきょ)、四碧斎(しへきさい)、四碧道人(しへきどうじん)、悠然野逸(ゆうぜんやいつ)と号している。通称を弥助(やすけ)、後に九一郎(きゅういちろう)、喜左衛門(きざえもん)と称した。 野呂介石(のろ かいせき)について 基本情報 生没年:1747年(延享4年) – 1828年(文政11年) 江戸時代後期の文人画家 本名:野呂 元珍(のろ もとよし) 号:介石(かいせき) 出身地:尾張国(現在の愛知県) 野呂介石の生涯 野呂介石は尾張国(現在の愛知県)出身の文人画家であり、特に南画(文人画)の分野で高い評価を受けた人物です。彼は、名古屋で薬種商を営む家に生まれましたが、若い頃から絵画や漢詩に興味を持ち、学問と芸術に精進しました。 彼の南画(文人画)のスタイルは、中国の画家沈南蘋(しん なんぴん)や池大雅(いけの たいが)、**与謝蕪村(よさ ぶそん)**といった同時代の日本の文人画家の影響を受けています。 画風と特徴 南画(文人画)の発展に寄与 野呂介石は、**池大雅や与謝蕪村の流れを汲む南画(文人画)**を得意としました。 南画とは、中国の文人(知識人)が趣味的に描いた水墨画のことで、日本では江戸時代中期以降に広まりました。 漢詩と画の融合 彼は詩文にも秀でており、画の中に詩を添える「詩画一致」の表現を重視しました。 そのため、彼の作品には風雅な漢詩が書き添えられていることが多いです。 山水画を中心に多彩な表現 彼の作品は、特に山水画に優れており、淡い墨色を活かした柔らかな風景描写が特徴的です。 また、花鳥画や人物画にも優れた才能を発揮しました。 代表作 野呂介石の作品は、現在も美術館や寺院などで見ることができます。特に以下のような作品が有名です。 『山水図巻』 文人画の典型的な作品で、繊細な筆致で描かれた山水画。 『瀟湘八景図』 瀟湘八景とは、中国の湖南省にある瀟水と湘水周辺の風景を題材にしたもので、南画家たちがよく描いたテーマ。 『梅花書屋図』 文人の理想的な暮らしを表現した作品で、詩情豊かな雰囲気が漂う。 『花鳥画』 色彩を抑えつつも、気品のある表現が特徴。 野呂介石の影響 彼は名古屋を拠点に活動し、尾張南画(名古屋南画)の発展に大きく貢献しました。 彼の画風は、のちの名古屋を中心とする南画家たちに影響を与え、名古屋南画の隆盛の礎を築いたといわれています。 まとめ 野呂介石は、江戸時代後期の文人画家として南画の発展に貢献しました。彼の作品は、詩と画を融合させた独特の表現が特徴で、特に山水画の名作を多く残しました。尾張南画の中心的な存在として、名古屋の画壇にも大きな影響を与えました。 |