近衛龍山このえりゅうざん

時代 桃山時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 桃山時代
プロフィール 近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。

近衛龍山(このえ りゅうざん)は、近衛前久(このえ さきひさ、1536年 – 1612年)の道号(出家後の号)です。​近衛前久は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿であり、関白や左大臣、太政大臣などの高位を歴任しました。​彼は近衛家の第17代当主であり、織田信長や豊臣秀吉とも深い関わりを持ちました。​


生涯と業績

幼少期から関白就任まで:​1536年に近衛稙家の長男として生まれ、1540年に元服し、足利義晴から偏諱を受けて「晴嗣(はるつぐ)」と名乗りました。1541年に従三位に叙され公卿に列し、1547年に内大臣、1553年に右大臣、1554年に関白および左大臣に就任しました。​

上杉謙信との盟約:​1559年、越後国の上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛した際、前久は謙信と血書の起請文を交わし盟約を結びました。翌年には関白の職にありながら越後に下向し、謙信の関東平定を助けるために活動しました。​

足利義昭との対立と失脚:​1565年の永禄の変で将軍・足利義輝が殺害されると、前久は義輝の従兄弟である足利義栄の将軍就任を支持しました。しかし、1568年に織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛すると、前久は関白職を解任され、丹波国や石山本願寺に身を寄せることとなりました。​

織田信長との関係修復:​1575年、信長の奏請により前久は京都に戻り、信長と親交を深めました。特に鷹狩りを通じて交流を深め、九州の大名間の和議を試みるなど、信長の政権運営に協力しました。​

本能寺の変後の動向:​1582年の本能寺の変で信長が死去すると、前久は一時失意のうちに出家し、「龍山」と号しました。明智光秀との関与を疑われましたが、徳川家康の助けを得て浜松に避難し、その後、羽柴秀吉との和解を経て京都に戻りました。​

晩年:​晩年は慈照寺東求堂で隠居生活を送り、1612年に77歳で亡くなりました。法名は「東求院龍山空誉」で、京都の東福寺に葬られています。​

文化的貢献

前久は公家としての政治活動だけでなく、文化人としても知られています。​特に和歌や書道に秀でており、彼の作品は後世に影響を与えました。​また、鷹狩りを愛好し、『龍山公鷹百首』という作品を残しています。 ​

近衛前久、すなわち近衛龍山は、戦国から江戸初期にかけての激動の時代に、公家としての立場を維持しつつ、多方面で活躍した人物でした。